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2007年12月
           
           
 
 
東海猷禅 (三生軒)
       
東海猷禅 (三生軒) 天保12年(1841) 〜 大正6年(1917)

とうかいゆうぜん 三生軒と号した。天保12年4月8日、美濃国方県郡洞野村の大谷泰助の三男として生まれる。安政元年、13歳で僧籍に入り、玄達と称した。38歳の時、梅林寺14代住職、無学和尚に懇請され梅林時に入山。明治12年3月、無学和尚のあとを継いで15代住職となった。明治38年に前田事件で一大危機にさらされた。本山妙心寺に推されて管長となった。猷禅は4年後、立派に治めると管長の要職を捨てて、梅林寺に帰山した。久留米藩主、有馬公の菩提寺として栄えた梅林寺も廃藩後の明治に入りて荒廃の一路で長い廊下の片側を通ると腐った板縁が跳ね上がるほどになっていた。猷禅は大正7年に命をかけて、この荒廃の寺を建て直し、九州第一の禅林道場にした。書を文徴明の法帖や美濃の観水斉の文字を習い、画を佐藤北洲らに学んだ。その達磨の絵は有名で「猷禅のだるま」と称されて珍重された。三生軒の閑居に隠居すると、筆墨に親しみ、猷禅を慕って訪ねてくる物には禅味溢れる洒脱さで快く対応した。死する前夜、黙雷和尚を枕辺に招いて、後々のことを頼み、その夜中静かに遺偈の筆をとり、また一円を画いた。大正6年5月1日、77歳で遷化。
 
   
       
               
 
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